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不戦勝

新聞などでもすでに発表されたので、ご存知の方も多いと思いますが、
きょう(13日)、ある受賞式に出席させていただきます。
http://www.jcj.gr.jp/jcjprizenew.html

といっても、実は当日に東京・多摩地区で同じ時間帯に2回の映画上映会があります。
http://www.taenoha.com/littlebirds

そちらの方が先約なので、受賞式そのものは「ちょっと顔を出す」だけになります。
主催者・来場者の方には大変申し訳ありません。

受賞そのものは大変光栄なのですが、一方で大変恥ずかしくもあります。
以前、別の賞で以下のような談話・コメントを別のHPに書きました。
http://www1.odn.ne.jp/watai/040220.htm
今回も基本的に同じ思いです。

私の人生のすべての「運」を、これで使い果たしたかもしれません。

11日に都内でジャーナリストの魚住昭さんの講演を聞きました。
http://llfp.j-all.com/

月刊「現代」9月号(講談社)を読めばはっきりとわかりますが、
タイトル通り、「『政治介入』の決定的証拠」を、魚住さんは取材でつかみました。
http://moura.jp/scoop-e/mgendai/
本来、最初に報じた朝日新聞が紙面で詳しく説明すべきことを、魚住さんが「代わりに」その一部始終を独自取材で説明してみせました。

これがジャーナリストの仕事と真骨頂、そして存在意義です。

魚住さんは以前こう書いています。

「記者たちがやるべきことはたった一つしかないと思う。それぞれがいまいる場所から声を上げることだ。理不尽なこと、納得できぬこと、かけがえのない『私』を奪い尽くそうとするあらゆる動きに対して異議を唱えることだ」(「新聞研究」日本新聞協会 02年6月号「記者が本当に自由であってこそ」から)

「記者」と「いまいる場所」の部分に入る言葉は、何でも、誰でも、どこでも同じです。何よりもまず、「自分がいる場所」からです。この国の内部状況を見れば、それが最も重要で、なおかついま、それが最も難しいのだと思います。

同じく共同通信出身の原寿雄氏が、「メディアの内と外」(岩波ブックレット NO.549)で、こう述べています。

「(中略)どうも私は、『良心的』ということと、『良心の発動』とは違うのではないかと思えて仕方がないのです。(中略)私は現在の状況を『一望の荒野』と表現しているのですが、政治も経済も社会もまさに一望の荒野の状況ではないですか。そういうなかで良心的であるだけでは、どうもこの状況を変えていくことはできないのではないか、と思えて仕方がありません。そこでは、単に『良心的』であるのではなく、『良心を発動する』ことが迫られているのではないか。日本の社会全体にも、ジャーナリストにもそれが迫られているのではないか、という感じがしてなりません。」

このところの8月6日、9日の広島・長崎、12日の日航ジャンボ機墜落から20年、そしてまもなく迎える15日の終戦記念日を前に、いろんな追悼や祈りの光景があちこちで続きますが、追悼の次、祈りの次に、何をするのか、何をすべきか、何をしてはいけないのか、何を記憶すべきかが、いま最も重要なことに違いないのでしょう。

そろそろ「発動」しないと、後からでは間に合わない、手遅れになるかもしれません。

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綿井健陽 WATAI Takeharu
Homepage [綿井健陽 Web Journal]
http://www1.odn.ne.jp/watai

映画「Little Birds~イラク戦火の家族たち」
公式HP http://www.littlebirds.net/
全国ロードショー上映中
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